第6回 「井上氏との出会い、決断下す」

 ベルツリー・オーストラリア代表・鈴木崇雄

わたしの現在住んでいる牧場は、シドニーから西へ約150キロほどのブルーマウンテンのメガロンバレー にあります。シドニー在住の井上氏が所有している牧場で、広さは360エーカーあります。

井上氏がこの牧場を購入したのは2001年でした。当時か らWAGYUに非常に興味を持たれており、種雄牛2頭を近隣のWAGYU生産者ウエストホルム牧場から購入したのが始まりでした。この後、WAGYU雌牛 2頭も購入し自家繁殖を繰り返しながら、WAGYUの頭数を増やしていきました。翌年、アンガス25頭、ホルスタイン5頭、ジャージー種を1頭購入し、交 雑種の生産も始められました。

わたしが井上氏に会ったのは03年、ちょうどこの牧場で交雑種生産を始めたころでした。仕事の関係で日本からの和牛生 産者グループを豪州の牧場に案内しているときに、その中の1人と井上氏が知り合いだったのです。ちょうど休養日にシドニーにいたので、一緒に行こうと誘わ れて訪れたのがこの牧場でした。「とにかく美味しい牛肉が食べたいんだ」初めてこの牧場に伺ったときに聞いた言葉です。自分で肥育を始めたい、どのような 餌をどの期間食べさせたら良いのだろうか、そんな質問が初対面のわたしに矢継ぎ早に降りかかりました。まだ始めたばかりの牧場で、餌を混ぜる設備も、飼槽 もありませんでした。わたしは餌の配合、最低限必要な設備などを説明しました。「話だけじゃ分からないな。じゃあ、今度お宅の牧場を見に行くよ」と言っ て、その時は別れたのでした。

それから数カ月後、レンジャースバレー牧場にいらした井上氏はそのスケールの大きさに驚きながらも、餌の内容、飼槽の 大きさなどを熱心に手で確かめておいででした。わが家にてF1のステーキを焼いて食べて、「F1でこれだけのものができれば上等」と大変満足されたようで した。そして、豪州に来て、こちらに身寄りのないわたしたちを大変懇意にしてくださり、「いつでも遊びにいらっしゃい」と言ってくれたのでした。

こ うして、子どもたちの学校が休みに入ると井上氏の牧場に遊びに行くようになりました。牧場に滞在している間は「次はこれをやろう、あれを付けよう」と夢の ような話をして過ごしました。しかし、本当に牧場は訪れるたびに新しい設備が整っていきます。新しいサイロが立ち、穀物を粉砕する機械、ベルトコンベヤー で稼動する飼槽、餌を攪拌(かくはん)するミキサーなど、とても個人の趣味とは思えない規模のフィードロットができ上がっていったのです。そして手始め に、20頭規模の肥育を開始しました。

それから2年後には自身の生産したF1の牛肉ができ上がりました。600日間肥育をかけた生体重760キロの 交雑種で、井上氏はとても満足されたのです。そんな井上氏が05年の10月に、「あんたも、自分で牧場をやってみなさい。ここの牧場をリースしてあげるか ら」とおっしゃってくれたのです。とても大きな決断でした。仕事も満足していたし、子どもの学校も始まっていました。でも、一生に何度も訪れることのない チャンスだとも思いました。ただし、WAGYU市場の状況は楽観視できるようなものではなく、「牧場として経営、生活が成り立つのか」と言う不安がありま した。「ほかにはないもの、自分にしかできないものは何なのか」そんな思いを胸に、06年12月にここメガロンバレーへやってきたのです。

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投稿者プロフィール

鈴木 崇雄
シドニー近郊のブルーマウンテンにある和牛牧場「 ベルツリー・オーストラリア」代表。日本人が営む唯一の和牛牧場として、オーストラリアで注目を集めている。